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ワイン業界を揺るがせたボルドーVSカリフォルニア

1976年【パリスの審判】
 
【パリスの審判とは】


今からほんの45年前、世界中の人が「ワインはフランス、フランスはワイン」と考え、フランスでしか高級ワインはできないと信じていました。
しかし当時無名だったカリフォルニアワインがフランスの一流シャトーを撃破し、世界中を震撼させたのが、1976年5月24日、パリ・テイスティング、通称【パリスの審判】です。







Steven Spurrier スティーヴン・スパリュア
この人物こそが、この【パリスの審判】の発起人です。

1941年、スパリュアはイギリスの裕福な貴族階級に生まれます。
彼の幼少期の遊びは地下セラーにこもり、ワインのボトルを生産地順に並べる事でした。学校を卒業した後は、ロンドンの様々なワインショップにて働き、ワインの知識と経験を積みました。1970年にパリへ渡った次の年に、小さなワインショップ「カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ」を買い取ります。

スパリュアは英語でワインを細かく説明し、差別もしない事から、パリ在住のアメリカ人から大人気となりました。

1972年にはワインショップの隣の建物を買い取ってワイン学校を始めます。
これが世界初のワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」です。

英語で教えてくれるワインスクールということで、アメリカ人やイギリス人が押し寄せました。

やがて「カーヴ・ド・ラ・マドレーヌ」は、アメリカ人のお客様だけでなく、カリフォルニアワインの生産者も立ち寄り、当時フランスでは無名だったカリフォルニアのワインも取り扱うようになります。

そうしてスパリュアは、カリフォルニアワインの素晴らしさにいち早く気づき、多くの方に味わってほしいと考えるようになりました。


 
【決戦開宴】


スパリュアとギャラガー(アカデミー・デュ・ヴァンの最初の講師)は、1976年のアメリカ建国200周年を記念して、何かイベントをしてワインショップとスクールの宣伝になれば...と考えていました。

そこで、これまで飲んで美味しかったカリフォルニアワインを、フランスの超一流のワインと対決させてみようと思いついたのです。

スパリュアは、カリフォルニアワインが1本でも上位に入れば、カリフォルニアの生産者達は自信になるだろうと考えており、スパリュアもギャラガーも、カリフォルニアの生産者も、誰一人としてカリフォルニアが勝つと思っていませんでした。

スパリュアは、フランスとカリフォルニアの白ワインを合計10本、同じく赤ワインを10本集めました。また、「アメリカ建国200周年」の記念イベントなので、フランスが4アイテムに対し、カリフォルニアを6アイテムと多く選びました。

スパリュアは、様々なワインイベントにに参加しており、知識や、テイスティング能力が高いことから、フランスのワイン界ではちょっとした有名人でした。

その信頼と人望により、フランスのワイン界を代表する9人が審査員として参加することになりました。





「パリスの審判」のワインは以下の通りです。








1976年5月24日15時、パリのホテルの一室で試飲が始まりました。

テイスティングは偏見を無くすため、ブラインドで行われました。

9人の審査員は、カリフォルニアワインの試飲と聞かされており、当日になってフランスワインが入る事を伝えられましたが、長年の経験と確かな舌を持つ審査員達は「そんなの飲めばすぐわかるので問題ない」と意に介しませんでした。

そして白ワインから試飲が始まりました。

結果はこちら↓↓↓



なんと1位はカリフォルニアの「シャトー・モンテレーナ」。名だたる一流の白ワインを抑え、カリフォルニアの白ワインが勝ったことに審査員は大きな衝撃を受けました。世界中の人が、そして何よりプライドが高いフランス人は「ワイン=フランス」と信じています。

そんなフランス人がカリフォルニアを勝たせたと分かれば、非国民扱いを受けるに違いありません。

そう考えた審査員は、赤ワイン部門では、意地でもフランスを勝たせようとしました。

赤ワイン部門の結果は以下の通りです。



なんとまたしても一位はアメリカ。

このようにして赤ワイン、白ワインの両方で、無名のカリフォルニアワインがフランスの超一流ワインに勝ってしまったのです。

これまで公式、非公式で数回、同じようなイベントは行われていましたが、今回は訳が違います。それは「誰もが認める審査員」が審査した事です。 しかし、現地メディアは「茶番」としてこの試飲会の取材そのものを最初から拒否しておりました。唯一、タイム誌の記者、ジョージ・テイバーは、アカデミー・デュ・ヴァンでワインの授業を受けたことがあり、その縁で、講師のパトリシア・ギャラガーから頼まれ試飲会を取材していました。

テイバーはタイム誌の6月号に【Judgement of Paris】と題し、この試飲会の様子をを掲載。また、ニューヨーク・タイムズ紙も2週連続で「パリスの審判」を取り上げました。

瞬く間に「カリフォルニアの勝利」は、フランス以外の世界中の国々に伝わり世界中の人々が驚きました。

これは、新世界ワインがスポットライトを浴びるきっかけであり、この出来事がなければ、現在のカリフォルニアワイン、ニューワールドワインの発展はなかったといっても過言ではないでしょう。
もちろんフランス側は本数が少なかった事や「フランスワインは熟成して真価を発揮する」などと抗議し以降40年に渡り遺恨試合が続く事になります。